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第19回 ルチャ・リブレ(自由なる闘い)
今回は24年前メキシコ料理ロス・ノビオスをオープンさせるべく初めて訪れたメキシコでの話。私の料理の師匠の中南米料理店で修行していた時共にスタッフとして働いたK君という男がいる。彼はその頃からかなりのメキシコ通だった。その時もすでにメキシコに行っていた彼に相当世話になった。観光、買い物、レストランめぐり、などなど・・・。彼がいたからこその体験をお話しよう。
元々私は格闘技好きである。中でもボクシングは大好きで後にフィットネスボクシングジムを作ってしまったほど。その時の滞在中も知人の紹介で知ったボクシングジム「バーニョ・マルガリータ」に足しげく通った。このジムはシティの中でも名門でメキシコボクシング界のドンと呼ばれた故ルペ・サンチェス会長が数多くの世界チャンピオンを送り出している。私が通っていた時もウンベルト・ゴンザレスをはじめ世界チャンピオンが3人も在籍していた。その中の1人マルコス・ビェラサーナは私にとても親切にしてくれた。トレーニングも一緒に付き合ってくれ忘れられない思い出の1つである。メキシコのジムというのはトレーニングの仕方からシステムまで日本とは全く違う。例えば私レベルの練習生にもマンツーマンでトレーナーが面倒を見てくれる。それはあたかもすごい選手にでもなった気分で自ずとモチベーションも上がる。
そんな訳で私はボクシングフリークだがK君は大のプロレスフリークである。そのすじに友人も多く、メキシコに渡り大成功を収めた日本人レスラー「ウルティモドラゴン」も彼の友達であり、日本でも人気の高かったマスカラス兄弟の弟ドスカラスも昔からの友達だというからプロレスファンなら羨ましい限りだろう。滞在中2人を紹介してもらいドスカラス氏にいたっては家にまでお邪魔した。
中でも楽しかったエピソードの1つに地方で試合をするというドスカラス氏の遠征にK君と私も同行した時の事。目指すはメキシコの中でも1、2の高い標高の町トルーカ。地方遠征といっても行くのは我々3人のみ、移動手段はドスカラス氏の白いムスタング、K君の計らいで私が助手席。何時間走っただろう、試合会場に到着。すると「バッグからマスクを取ってくれ」とドスカラス氏。後部座席のK君がスポーツバッグからマスクを取り出しドスカラス氏に手渡す。手馴れた手つきでマスクをつけるドスカラス氏。ルチャ戦士に変身した瞬間、鳥肌もの。メキシコではマスカレード(マスクをつける)した時から別の人間になるという考え方がある。例えば昼は消防士や料理人、はたまた先生や神父さんまで、夜になるとマスクをつけリングに上がりルチャ戦士としてルチャリブレ(自由なる闘い)を展開する。
「ここでのファイトはきついから早めに仕留めたい」とドスカラス氏。そう、ここはかなりの標高の高さ、空気が薄く酸素も少ない。このような環境でプロレスなど相当大変であろう。入り口はファンであふれかえっている。我々も客席で観戦した。彼は言葉通り鮮やかな空中殺法で早いラウンドで相手をマットに沈めた。余談だがその日の前座はこれもメキシコで成功した功労者のグラン浜田だった。
試合後控え室へ戻ってきた彼はマスクをはずすと疲れも見せず余裕の笑顔。その素顔は俳優顔負け「アミーゴス、さあ帰ろうか」再びムスタングを駆りシティへひた走る。その後メキシカンレスラー達のパーティーにも招かれ最高の思い出になった。
皆さんもメキシコに行く機会があったら是非ともルチャリブレを見に行ってみてください。試合の楽しさにとどまらず、そこにはメキシコの文化そのものの息吹があり素朴なメキシコ人の素顔が垣間見れるはず。そしてルチャリブレ(自由なる闘い)の意味がわかるかもです。ビバ・メヒコ!




第18回 シクロ
今回はアンナンブルー1号店オープンの際、初めて視察兼準備のためベトナムを訪れた時の話。
まずは現地の料理を実際に味わい、見る、それが第一の目的だった。だが今回は食べ歩きの話ではない。専門店を作るという事で何か店のオブジェとして国の象徴的な物を探していた。そこで思いついたのは映画にもなった自転車TAXIシクロ、これしかない。しかしどうやって手に入れよう、新品では趣がない。これはいっちょう営業しているシクロの運ちゃんに売ってもらうしかない。ここでまた登場するのがハーさん。第1回のこぼれ話にも出ていただいたが、まさにこういう時には最強の味方である。
シクロの運ちゃん達は大抵5、6人でホテルや市場の前で暇そうにボーっとしている。今は15年前と違ってベトナム旅行もポピュラーになり観光客も増えシクロの運ちゃん達もそれなりに忙しいのだろうが、当時は大抵昼寝の真っ最中といった感じ。最初「さすがのハーさんもこの交渉は手こずるだろう」とふんでいた。何しろ商売道具をいきなり売れと言うのだから。下手すると怒られそうだ。ところが・・・である。何人交渉をしただろうか1時間もしないうちに「加藤、商談成立したよ」と、正直びっくり、恐るべしはハーさん。気になるのは値段、恐る恐る聞くと「大丈夫、安いよ100ドルだから」日本円で1万円、そのころフォーが1杯30円前後、ちなみに現在は100円前後、まあ当時の100ドルはベトナム人にとってはかなりのお金には違いないだろう。しかし生活手段の商売道具である。
その後、運ちゃんと握手、そして何やら私に手帳のような物をくれた。何かとハーさんに通訳を頼む。何とそれは彼のシクロの免許証であった。「あんたシクロを買っても免許がないと困るだろう」って言っているらしい。「なんのこっちゃ?!」でもこの人、運ちゃん家業を廃業するつもりなのか?これからどうするのだろう、心配をよそに彼は嬉しそうに帰っていった。場所はコンチネンタルホテルの前、後で気づいたのだがこのシクロよく見るとコンチネンタルの刻印が・・・まさか・・・まあいいか、そのまま港まで運び、船便で日本へ送った。言うまでも無く運賃の方が高くついた。
またまたハーさんのおかげでベトナムを走りまわった本物のシクロをゲット。それは吹上本店の前に今も鎮座している。10数年風雨にさらされくたびれ寂しげにも見えるがあの青いシクロを見るたびにオープンの頃の記憶が鮮明によみがえり懐かしさに思わずニヤッとしてしまう。




第17回 山羊(やぎ)
今回は4回目のメキシコでプエブラを訪れた時の話。プエブラはメキシコ料理ロス・ロビオスでも人気の料理、モレ・ポブラーノ(鶏のソテーカカオソース)の発祥の地とされている地だ。前にメキシコを訪れたときに知人に紹介され友達になったミゲールという男がいる。今回は彼の生家にお邪魔した時のエピソード。
その家は郊外にあり、のどかで美しい所だった。大家族で家畜を育てたり農業を営んでいる。到着するとすぐに彼のファミリーを紹介された。いとこの誰だとか、これは甥っ子の誰だとか…。そして今回のケチのつけ初め。紹介されたファミリーの中に男の私から見ても俳優顔負けの美男子がいた。私的には他意はなく「彼はグワッポ(かっこいいね)女性にもてるだろうね」と、何の気なしに言った。ところが、ミゲールが顔をしかめる??「カトー、そういうことは言ってはダメだ」と、ここではホモセクシャルと思われると、それは困る。私はその道の人間ではないし…。他にも女性を猫に例えては失礼だとか、「猫はかわいいのに」、所変われば色々。知らずに言った言葉が不愉快な思いをさせてしまうかもしれない。文化が違うということを忘れてはいけない、あらためて思った。
話を戻して、「今日は庭でパーティーをする。カトーも是非楽しんでいってくれ」と。驚かせることもあると。「なんだろう?」さて庭に案内される(庭といっても広大である)。そこには数々のご馳走と酒が大きなテーブルに所狭しと置かれていた。だがメインは調理もこれかららしい。なんと家畜の山羊を一頭しめるというのだ、驚いた!しかも大地に穴を掘り真っ赤に焼けた石をいくつもほうり込み、そこに解体した山羊の肉を入れ、葉っぱなどをかぶせ土をかけて蓋をする。蒸し焼きだ。なんでもこれがバーベキューの元の形、語源にもなっているのだとか。一連の作業はとても興味深いものだった。特に驚いたのは、最後に土をかけ大地に蓋をした後、木枝で作った粗末な十字架をその上に突き立てた。私としてはなるほど、先ほどまで生きていた動物を殺し、頂くのだから、神に召されてくれという贖罪の気持ちからであろうと考えた。そしてその通りにミゲールに尋ねた。ところが意外な答えが返ってくる。「アミーゴ、あれはね、美味しく出来ますようにって神に頼むために立てるんだ」と。確かに、殺生するのなら美味しく頂かなければ山羊もうかばれまい。そういう意味で考えたら同じことか、などと自分を納得させながら彼の話を聞いていた。
さて問題はこれから。料理人としては恥ずかしい話だが、何を隠そう私は羊が苦手である。羊でさえだめなのに、何倍も臭い山羊は尚のこと。日本でもたまに山羊のチーズなど、臭い物好きの友人がレストランなどで頼んでワインと共に美味しそうに食べていると、そばに寄りたくない(笑)くらい。話はそれたがテーブルには他にもビリア(山羊の煮込み)や山羊のサラミなど山羊だらけ。子牛や子豚なら大歓迎なのに。ファミリーは気を使って取り分けては私の元へ。私は口を少しつけるのがやっと。困った顔を見抜かれ、「どうした?美味しいだろう?」と。ここは嘘を言っても仕方ない。「実は苦手だ」と正直に言うと、その時の彼らの顔は最初は驚き、次に悲しそうな顔、つらい…。その代わり他の料理とお酒をたくさん頂いた。
パーティーは盛り上がり最高潮。その時またいたずらな悪魔が笑った。「アミーゴ、まだデザートがあるぞ」正体はアロス・コン・レチェ。アロスとは米、レチュとは牛乳である。まいった、実は私はそのままの牛乳も苦手である。シロップ入りミルクに炊いた米が入っている。しかもあまり冷えていない。少しシナモンが入ったこのデザート、おそらく日本人でも好きな人は好きであろう、だが私にとっては小学校の牛乳タイムを思い出させる代物。しかしここは大人として一気に食べて笑顔を貫く。「役者やのう」悪魔が笑う。底抜けに明るいメキシコ人たちとのパーティーは心に残るものだった。温かい歓待を胸にファミリーに別れを告げた。



第16回 ボラカイ島
今回はロス・ノビオスのスタッフと始めての慰安旅行で訪れたフィリピンでの話。フィリピンと言ってもお目当てはセブ島から更に小型機、舟を使って向かう南海の小島ボラカイ島である。
マリンスポーツを楽しもうということで決めた。着くまではいろいろな乗り物を乗り継ぎかなり時間もかかったが、その甲斐あって本当に美しい島、海である。この島、地元のフィリピン人も観光に訪れるほど。面白いことにこの小さな島には王様がいるらしい!ある一族の所有する島であり、その長男が王子というわけだ。なぜか会わせてもらうことになり王子様に挨拶を済ませ(笑)、ダイビング、フィッシングなどのマリンスポーツに興じた。食事は取り立てて美味しいというものはなかったが、ホテルのバーにレイというフィリピーノがいて、この男がとてもユニークなのでついつい深夜まで飲んでしまった。フィリピンというのはスペイン統治時代があったためセブ島などでは未だに年寄りはスペイン語を話すらしい。タガログ語などもスペイン語と同じ言葉がいくつもある。スペインという国は他国を制服するのがよほど好きだったらしい。話を戻して、バーテンのレイにロマンチックな話を聞いた。もちろんここは常夏で雪なんか降らないが、クリスマスシーズンにヤシの木にヤシ蛍がついて光るから天然のクリスマスツリーができるんだよと。その時期ではなかったから見られなかったが…。
さて2日間島で過ごし真っ黒になった我々は首都マニラに帰ってきた。1日マニラで過ごし帰国の途に着く。マニラでは市内観光、フィリピン料理を堪能した。アンティクーチョ、アドボ、エビのライムジュース漬けなど、メキシコ料理とあい通づる料理がかなりあり美味しく食べられた。移動はマイクロバスだったが、ガイドが窓は開けるなと言う。何でも手がにゅーっと入ってきてあっという間にネックレスなどを盗まれてしまうからと。ここはのどかなボラカイ島とは違うのだ。マニラは外国人や比較的金持ちが住んでいる比較的治安のいいエリア、マカティ地区や、裸足で生活しているほど貧しい人たちが住んでいるエリア、トンド地区などのスラムがある。いずれにせよ油断できないということだ。その日の夜、帰国前夜ということで男ばかり(用心のため申し訳ないが女性スタッフは残して)で街へ繰り出した。ホテルのボーイに勧められたナイトクラブ(?)踊れて飲める店に入り、最後の夜を満喫していると、日本人のグループだからか支配人らしき男がテーブルに挨拶に来た。何と面白いことに、この人、全身阪神タイガース!日本のファンも真っ青なほど、日本語を全く話さないこの50歳くらいのおじさんが頭からつま先までなぜ阪神タイガースだったかはナゾだが、酒酔いも手伝ってみんなで大ウケしてしまった。明くる日二日酔い気味で帰国の途に着く。
最近は慰安旅行で海外などなかなか行けるものではないが、仕事仲間とまた行きたいと思う今日この頃である。



第15回 タイ
最初にこのたびの大規模地震により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
皆様の安全と、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。
アンナンブルー栄店では、微力ながら義援金募金箱を設置させていただきました。

さて今回のこぼれ話はベトナムの帰りに立ち寄ったタイでの話。まずは北部チェンマイに入る。町の中心に宿を取り好きな屋台めぐり、チェンマイに行ったら絶対にカオソーイを食べろと教えてくれたタイ人の友人の言葉に従い美味しくて人気の店を探した。そして見つけたのはカオソーイの専門店。早速入る、昼時というのもあって女子学生やサラリーマン風の人達で満席状態。少し待たされ、ついに念願のカオソーイ。周りを見てもみな美味しそうに食べている。見た目にもかなり期待できそうだ。事前に友人から仕入れた情報からするとカレー風味ラーメンといったイメージか、早速一口、うーん・・・これは・・・思わずうなってしまった。味のイメージが完全に裏切られた瞬間。甘い、とにかく甘い、ココナッツの香りは好きなので問題ないが、ぜんざい並に甘い。温製麺料理でここまで甘いのは・・・。箸が止まってしまった。もしかして女学生が多いのはこの甘さのせいなのか?女性の甘味好きは世界共通。申し訳ないがほとんど残して店を出た。その後違う店で食べたセンミー(ビーフン)などは、汁麺も炒め麺も少し辛かったが美味しかった。全体的な北部の味の印象は甘い、辛い、酸っぱいがかなりはっきりしているということ。屋台をぶらつき夕方宿に戻る。途中タイ式マッサージを発見、話のネタにと寄ってみた。内容はというと単純にマッサージというよりストレッチを兼ねている感じでなかなかハードだった。1時間しっかりやってもらって日本円で450円、安い!身体もリフレッシュ。明日はバンコクへ向かう。
あくる日バンコクへ到着。やはりここでも屋台。屋台は屋台でも水上屋台。中心から1時間半、ダムヌン。細い河にたくさんの小舟、みな何か売っている。野菜、果物、魚など、麺やおかずの屋台舟もある。映画「エマニエル夫人」にでてくる1コマのよう。しかし幅80cm長さ4mほどか、そのスペースで麺料理を提供している。すごい!しかも舟の後方にはちゃんとスープをとるためか大きなズンドウまで供えている。舟同士すれ違うたびに引き波に揺られても動じることはない。船頭兼料理人のおばちゃんは明るい笑顔で料理を勧めてくれる。この水上屋台だけでも20種類以上の麺料理が食べられるというから驚きだ。今回のタイは屋台づくしの楽しい旅になった。
さて、ここからは帰国寸前空港近くで体験したヘビィな話。インドシナ各国は今もまだ極端に貧しい人達がいる。ここタイもしかり富裕層はより裕福になり貧富の差はひらくばかり。インドシナ各国を旅して感じたことの1つに日本人は貧しい人達に比較的優しいということ。欧米人なんかは物乞いのような人が寄って来ただけでそれはシビアに追い払う。そんな場面を何度も見かけた。日本人はというと特に年配の人は少しならとお金をあげたりしている。相手が子供だったらなおのこと。あれは空港からほど近い場所、旅行者が多いという理由だろうか、歩いていると痩せこけた中年の女性が幼い子を抱いて道の隅に座っている。疲れ果てた生気の無い顔、見ると子供には片腕が無い。タイを後にする私は残りのバーツを親子?の前の粗末なカンに入れようとした。見送りに来てくれたナパ氏がそれを見て「カトウ、それはやめてくれ」なぜ?タイは出るし、気の毒だから。「考えられないかもしれないけど、それぐらいのお金をあげると彼女の夫かもしくはボスが子供のもう片方の腕も切ってしまうかもしれないから」確信は無いがあり得る話だからとナパ氏。一瞬周りの景色がゆがむくらい衝撃を受けた。もちろん私だってむやみやたらにお金をあげたりはしない。それが必ずしも良くないこともわかっている。だが甘かった。現実は想像をはるかに超えているのかもしれない・・・ナパ氏に別れを告げ搭乗。
機内でボーッと考えた。人間は普通に暮らしていけるだけで充分幸せなことだということを。いつの日か世界中の人がなにげなく普通に暮らしていける日が来るのだろうか、来てほしい。ふとジョンレノンの名曲「イマジン」の歌詞を思い出した。



第14回 メキシカンリゾートPart3
メキシカンリゾートシリーズ最終は、日本でも比較的有名なアカプルコ。昔、かつらのCMで使われた断崖絶壁から海に飛び込むケブラダの滝が有名なリゾートだ。シルベスタースタローンをはじめ、ハリウッドスターの別荘も多く、遊ぶ場所も充実していて巨大なディスコや高級レストランなどナイトライフには事欠かない。だが海はというとお世辞にもきれいとは言えない。
私的にはあまり興味をそそられず、なんとなくぶらぶらしていた。ただビーチのはずれに日本人の侍の銅像があり、何でも昔この地に流れ着き活躍したのだとか。常夏のアカプルコの海辺に刀をさしたちょんまげ姿の日本人の像が建っているのは何ともアンバランスで面白かった。海辺から離れ奥の方へ足を延ばし村落のような所へ出た。日本人が珍しいのか寄って来た子供たちと話したり写真を撮ったりして過ごした。観光客で賑わっている場所から1時間ほど歩いただけなのに、のどかな風景が広がる。アカプルコもリゾート化するまでは海もきれいでのんびりした所だったのだろう。それもそう昔の話ではなく、何しろ村の子供たちの家には未だに住所というものが無いという。写真を送りたいと言った時にわかったのだが・・・こういう落差が高級リゾートの現実かもしれない。
子供たちに別れを告げ夕方街へ戻り帰り支度。夜行バスでメキシコシティーへ戻る予定だった。しかしターミナルに着いて聞くとそんな便は前から無いと。しかし最新のガイドブックに確かに載っている。着いた時確認するべきだった、が後の祭り。そういえば誰かが言っていた。「あの本はね、地球の迷い方って言うんだよ」って。まずい、次の便ではシティーからのフライトに間に合わない。苦肉の策でタクシーを捜した。しかしこんな時間から山道をシティーまで走ってくれる酔狂な運ちゃんなんているだろうか?20人以上聞いて、やっと引き受けてくれるタクシーを見つけた。だが夜中から朝まで曲がりくねった山道を走る。眠いのは運ちゃんも同じだろう。これはこっちも眠るわけにはいかない。しかも100%信用できない。何しろアカプルコでは、すでにタクシーにはぼられているし、レンタカーで走っていると、あらぬ言いがかりで警察官にワイロを要求されたことも。この警官などはワイロを断固として断るとしびれをきらし自分のバッジを土産に買えと、開いた口がふさがらない。そんなこんなで着くまでは寝ないと心に誓い出発。しかし3時間過ぎた頃だろうか、睡魔に負けて眠ってしまった。
「セニョール!セニョール!」の声に起こされたときは朝で、すでに空港に着いていた。いい運ちゃんで助かった。礼を言い帰国の途へ。海外は特に情報が真実かどうかそこへ行くまでわからず、余分な出費と反省だけが残った。「郷に入れば郷に従え」という言葉があるが、楽しみに来たはずが結局いやな思い出にしてしまう事は本当に残念。せっかくの滞在をいい思い出にするためにも心の隅に緊張感と警戒心を持つ事が大事だと思う。ただ行き過ぎたそれは逆にその場所を楽しむ事の弊害にもなるが。しかし主張すべき時はきちんと主張する、これが日本人旅行者に一番足らないとこだと思う。その辺のバランスをとりながら旅をすると違う楽しみが見えてくるような気がする。最近私自身もなかなかリゾートなどでゆっくり過ごす時間もないが機会があればまた行ったことの無い場所へ行ってみたい。最後にこれから旅される皆さんがすばらしいリゾートライフを送れますように。



第13回 メキシカンリゾートPart2
リゾートシリーズ2回目、今回はユカタン半島カンクンでの話。 今やメキシカンカリブの高級リゾートとして有名なカンクン(マヤ語で海ヘビ)は長細い形からか。 ここでの主な目的はマヤ料理とマヤ遺跡。現地で落ち会った妹と回った。 海の美しさもさることながら、この地はマヤ文明発祥の地として現地ならではの本格マヤ料理が味わえるらしく、早速専門店を探した。意外にも専門店は少なく、やっと見つけて入ってみる。 気になる料理を数種類注文した。正直そのまま提供しても日本では厳しいだろう料理もあったが、ほとんどが美味しく、凝った面白い料理にも出会えた。 中でも一番気に入ったのがポジョピビルというオレンジジュースとアチオテという香辛料を使った鶏肉の煮込み料理。 スペイン語が堪能な妹を介してダメもとで作り方を聞いてみた。すると料理長が厨房に入れてくれ、レシピまで教えてくれた。 日本から来たということもあったのだろうがメキシカンの寛大さとおおらかさに感謝感謝である。他にも色々教えてもらい大収穫であった。
2日目、半島に散らばる数々の遺跡を見るべく基地とする場所に宿をとり、ジープをレンタルし、あくる日早朝から出発。道は縦断するようにほぼ一本道で真っすぐ、景色は単調だが空がとにかく美しい。 日本の秋空のように高く真っ青な空に白い雲が流れ本当にすがすがしい。最近の映画で例えるならアカデミー受賞作品でもあるジェフ・ブリッジス主演の「クレイジーハート」に出てくるニューメキシコの景色に似ている。 オープンエアーで車を走らせる。途中に遺跡が点在している。アクマル、ウシュマル、トゥルムなど何箇所か見て回った。中でも圧巻だったのがトゥルム。 白い遺跡群とエメラルドグリーンのカリブ海のコントラストはすばらしいの一言。かのコンテスもここを発見したときはあまりの美しさにうなったとか。 遺跡といっても広大なので回るだけでもかなりの時間を費やす。気がつくと夕方だった。慣れない夜道も危険ということで宿に向けて帰路についた。
かなり走ったのだろう、ガソリンが心細くなってきた。行きにガソリンスタンドがあったことで安心していたが、帰り道のスタンドはどこも閉まっている。 日も暮れてきた。こんな所でガス欠などシャレにならない。日中は日差しで暑いくらいだが日が暮れると一気に冷え込む。 オープンカーでTシャツ、軽装ということもあり焦りを募らせる。しばらく走りあきらめかけた時、閉めかけているスタンドを見つけた。 「助かった!」飛び込んで給油を頼むとポンプの故障で無理だと。「帰れないから何とかならないか」という我々の言葉に「だったら横のトラックから直接入れるしかないな」とスタンドのお兄ちゃん。 要するに小型タンクローリーの上に登り、上からホースの差込口で吸い上げ、後は液体が下に行く性質を利用し給油するという原始的なやり方である。
選択の余地はない。ガソリンを吸い込み、むせながら何とか給油。妹はむせる私を見て笑っている。こいつここに置いて行こうか(笑)。何とか宿に到着。疲れ果てとりあえず眠った。
あくる日、ジープを返し、次なる目的地コスメル島(マヤ語でツバメの巣)に向かうべく船に乗り込んだ。この島は好きな映画「カリブの熱い夜」の舞台にもなった。 映画の中のムードを楽しみにして来たが83年当時の映画の中の面影はなく、素朴だったはずの島はハードロックカフェなどの店も立ち並び様変わりしていた。 少し落胆しながらも海辺の店で名物料理セビッチェ(魚介のライムジュース漬け)をつまみにセルベッサ・ソル(ビール)を飲んでいるとやはり最高だ。 ほてった体を冷ますため色鮮やかな魚達とひと泳ぎ。ここでの宿は、いやがる妹を無視してあえてひなびたホテルを選び少しだけ映画の気分を味わう。翌日、島からの帰りに見た夕日がまた格別。
ユカタンでの予定を終え再びメキシコシティーへ。飛行機は空からの美しいカンクンを見せる為、機長が2回旋回してくれた。粋なサービス。絵を見ているような美しいカンクンを後にした。



第12回 メキシカンリゾートPart1
こぼれ話も今回で12回を数えますが、新年も明けましたので、まずは最初にアンナンブルー各店、ロスノビオスを可愛がっていただいている皆様、私のつたない話を読んでいただいている皆様に感謝するとともに、 本年の皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて今回はメキシコの海辺のリゾートを回った時の話。当時まだ新しいリゾートとして注目され始めていたカンクン、 オアトゥルコなどは高級ホテルの建築ラッシュだった。最初に主都メキシコシティからインディオの都市オアハカへ、 美しい景色と美味しい食を堪能した。かなり田舎といった感じだが、自然と人の素朴さがすばらしい。 空気がきれいなのだろう、空はぬけるような青、夜はまさに満天の星空、比較的治安も良い。 ただ、昔日本が染料に使うため貝むらさきを獲りすぎたとかで、年寄りのメキシコ人から日本人は良く思われていないらしい。 事実、市場に行った折、おじいさんから「日本人は帰れ」と怒鳴られた。でも若い人たちは穏やかで親切だった。 料理はと言うと日本でもそうだが田舎の料理は素朴で美味しい。 もともとプエブラ発祥の料理で、メキシコ中どこにでもあるモレ・ポブラーノという鶏むね肉にカカオのソースをかけたシンプルな料理があるのだが、 メキシコシティで食べた物とは比較にならないほど美味しかった。このオアハカのモレは、現在もロスノビオスの人気メニューの一つである。
オアハカに2日滞在後、次なる目的地へ。今はレアだという海辺のリゾート、オアトゥルコに向かう。 あいにく3等のバスしか空きがなく、まぁいいか・・・。と、これが間違いの元、数時間かかるということで乗り込む前に腹ごしらえ。 屋台風の店で名物料理ポソレ(大きなコーンと豚を煮込んだ辛いスープ料理)を食べた。 バスが出て30分、腹に違和感、10分もたたずに腹痛が襲った。ポソレにあたったらしい。 結局大ひんしゅくの中1時間で2回もバスを止めてもらうはめに。しかし何度止まろうと腹痛は襲ってくる。 これ以上バスを止めるわけにもいかずもうダメだ・・・と思ったその時、バスが止まった。
どうやら麻薬の検問らしい。軍服を着た兵士らしき男が10人ほど、普通なら厄介なだけだが今は救いの検問、 キエロ・バーニョ(トイレ!)と叫びながらバスから飛び降り森に駆け込んだ。ホッと一息。 しかし戻ると何やら怪しげなムード。乗客の1人が「セニョール、あんなに急に走って後ろから撃たれたらどうするんだ」と。 確かにそうだな。そうこうしている間に兵士?らしき男が、男だけバスから降りろと言う。マジ?もしかして本当にやばいかも。 相当な山奥だし兵士達は女性だけのバスに乗り込み何やら荷物をゴソゴソやっている。 15分くらいたっただろうか、降りてきて我々をバスに戻し行っていいと。 何か盗られた形跡もなく本当に検問だったのだろうか、ともあれ胸をなでおろし何とか目的地に着いた。
1日目はさすがに部屋から出られなかったが2日目に回復、レアなリゾートを散策することに。 確かにいい所、美しく田舎なのにあかぬけた感じ。高級感もある、ホテルもかなりいい値段だ。 この少し隠れ家めいたリゾートも今は静かだがほどなくアメリカ人観光客で混みあうだろう。 まだ人もまばらな海辺に出てみた。ホテルのすぐ前、エメラルドグリーンのプライベートビーチ、沖までひと泳ぎ、 戻ってビーチで寝転びながらよく冷えたセリベッサ・テカテ(ビール)を飲み、 次にフローズンマルガリータ・・・2杯目のマルガリータを飲み干すころには心地よいまどろみが訪れる。 パラソルの外は強烈な日差しだがパラソルの中は乾いた空気と微風で快適この上ない。 まどろみの中、目を開けるとパラソルの中と外の鮮やかなまでのコントラストに圧倒される。 再び目を閉じ睡魔に身をまかせる。これぞリゾートの醍醐味、まさに至福の時、まだあまり知られていない時に来られて良かった。 人間も雰囲気の一部だと思う、人があふれると雰囲気も一変してしまう。 レストランもしかり、箱と人のバランスがとれているとムードもいいし色々な意味で行き届く。 贅沢な話ではあるが・・・。ビーチにいてもレストランにいても今は最高に快適でレアなリゾートを後にした。 帰りはもちろん1等のバスに。何しろトイレ付だから。



第11回 ラオスにて
以前ベトナムに行った際、近隣国であるラオスに立ち寄った。 カンボジアのアンコールワットのような有名な観光地があるわけでもないから観光客も決して多くはないが、緑豊かな美しい自然があり、治安もよく、穏やかで、なぜか懐かしい感じがする国だ。
料理はタイ北部に近い様で、甘い酸っぱいがはっきりした味が多い。 私的には味付けよりは素材がすばらしく良いので、素材そのものを焼いたりした。塩・コショウ・レモン・魚醤などで軽く味付けした料理ばかり食べていた。 肉・卵・野菜などは本当に美味しく、今の日本ではなかなか味わえない。ホテルの朝のブュッフェなどでも半熟ゆで卵でうなってしまうほど。 ラオス料理で一番気に入ったのはピンカーイという料理。鶏を開いて炭火で焼いて魚醤ベースのタレをぬっただけのシンプルなもの。これがどれだけでも食べられるほど、最高だった。
都市的には主都ビェンチャン、王国の古都ルアン・ババーンが栄えている。 それでもベトナムとかと比べるとかなり田舎だ。ルアン・ババーンに滞在している時にこんな話を聞いた。 「ルアン・ババーンというのは、この国の宝でもある黄金の仏像の名前で、今はタイにあるエメラルドの仏像と一対であった。 この2体の仏像をめぐり、その昔、両国はしばしば争った。現在では仲良く1体ずつ両国で保有している。 なんでも過去にどちらかの国に2体そろってしまうと国にもめ事が絶えなかったという。」 不思議な話だが・・・その美しい仏像も見られて満足のうちに帰路に着いた。 帰りがけに土産に何かと店を物色、もともと骨董が大好きな私はラオスの仏像が気に入り、店のディスプレイにも良いと買っているうちに(フェイクだが)結構な数になってしまった。
空港に着きこれらを荷物として預け搭乗を待っていた。 そして搭乗OKのアナウンスとほぼ同時に私の名前が呼ばれ荷物検査の所へ戻れと言う。 えっ!?今から?乗り遅れる!でもとりあえず仕方ない。大急ぎで降りると、誰もいない中、仏頂面の女性職員1人、私の荷物の仏像を調べるというのだ。 土産としては数が多く、売買目的で本物を持ち出すつもりだと思われたらしい。ラオスでは厳しく規制されているのだ。その監査官は1つ1つ包み紙をはがし調べていく。「早くしてくれ!」心の中で思った。ようやく検査が済み、機内に滑り込む。視線が突き刺さる。私待ちの状態だった。
無事出国、機内で考えた。日本だったら古いというだけでは仏像を国外に持ち出すことにそこまで厳しくはないだろう。 同じ仏教国でも仏に対する考え方が違うのだろうか。 ラオス最大の祭り、タートルアン祭などを見ても全国から僧侶や信者が集まり大人から子供まで仏塔に祈りを捧げる。 やはり信心が当たり前に生活の一部であり、その象徴である仏像は国の宝として特に大事にされているのだろう。 私の先祖のお墓は日泰寺にあるのだが、横にお釈迦様の骨が祭られている仏塔がある。 帰ったら墓参りの折に釈迦の仏塔に手を合わせてみようかな、などと考えているうちに眠りに落ちてしまった。



第10回 プチ・パリ
ベトナムと言えば80年もの長きにわたりフランス統治下にあった。 そのせいだろう、フランスの香りを感じる所がいたるところにある。 フランスパン、コーヒーなど、中部のダナン、バンメトートなど…。 昔はフランス人の避暑地でもあり今もコーヒー豆の名産地でもある。そういった雰囲気のせいなのか、ふっとヨーロッパの匂いがしたりする。 主都ハノイほどではないがホーチミンにもその感じはありカフェやギャラリーは街中にある。そのあたりがプチ・パリと呼ばれる所以だろうか。フレンチレストランにしても美味しい店が何軒かある。 友人に聞いた話だと、今、世界でもトップレベルのフランス料理のシェフはもちろんパリに多いが、そのうち何人かはベトナム人だとか。 確かに以前研修の為にベトナム料理のコックを現地から呼んだのだが、彼らはベトナム料理にとどまらず各国の料理をこなし技術的にも高いレベルにあった。 彼に聞くと、ベトナムでレストランやホテルクラスで働いている料理人は学校などでかなり勉強しないとそういった場所で働く資格がもらえないらしい。 だから自ずと料理人のレベルが高くなるということか。そういえば以前ホーチミンで入ったフレンチレストランもなかなかのものだった。
ベトナムでフレンチ、これはおもしろいが、逆もある。 フランスでベトナミーズ。 パリで有名なベトナムレストラン、タン・ディンのオーナーは実はベトナム人。 しかしかなりのワイン通で、彼の自論はベトナム料理に合う赤はボルドーのポムロルが最高。 いわゆるメルロー種がメインということでポムロル地区の赤はほとんど揃えているとか。 それだけでもすごいが、ポムロルでかの有名なシャトーペトリュスを世に知らしめたのも彼の力によるところが大きいというから驚きである。
話はレストランからギャラリーへ変わるが、街をぶらついていた時なんとなく入ったギャラリーで目を引く版画を見つけた。 いくつか見ていくうちにとても気に入ったので作者の事を聞くと、ベトナム在住のフランス人で画家名はなんと神山宗という。 日本版画の影響を受けたのか単純に日本が好きなのか分からないがユニークである。 ハガキサイズから少し大きめの作品まで数点買い込み今でも店に飾ってある。 彼の作品はユーモアたっぷりの物から色気の漂う物まで幅広く遊び心にあふれている。 でも何故ホーチミンにもハノイにもギャラリーが多いのだろう。 直接の理由かは分からないが後に読んだ本によると、ベトナムには仏領インドシナ時代に設立された美術学校などもあり、ベトナムとヨーロッパを融合させた作品を生み出すアーチストが多く生まれたらしい。 そういう昔の遺産が脈々と今にも受け継がれているのかもしれない。 そう考えるとギャラリーが多いのもうなずける。 とにかく「プチ・パリ」は料理はもとより、芸術好きな人にも魅力的な街であることは間違いない。



第9回 アンコールワット
今回はベトナムの帰りに立ち寄ったカンボジアのシュムリアップでの話。 ここはかの有名なアンコールワット遺跡がある所。 アンコールワット、アンコールトムもすばらしいが私が一番好きなのはタ・プロームで、アンコールワットを造ったジャヤバルマン7世が母の菩提寺にと造った寺院である。 他の遺跡と異なり寺院と自然をあえて融合させている。 ガジュマルの枝、根が建物に巻きつき、あるものは貫いている。ガジュマルと遺跡の見事な調和が圧巻で、生命力が強く成長が早いこの樹はしばしば遺跡を崩落させるらしい。 私が訪れた前日にも崩れたとか、現場を見ると割れるように崩れていた。
入り口で頼んだガイド?が12〜13歳くらいの子供でタ・プロームの中に住んでいるという。 多分、寺の小僧さんのような子か、さすがに住んでいるだけあって昨晩の崩落場所もすぐに案内してくれた。 彼の話では最近は警備も厳しくなって盗掘も減ったがまだたまにあるらしい。 クメール人の彫刻、レリーフの細やかさ、美しさはすばらしく欧米や日本でもその手の収集家達には垂涎の的であり高価で売買されるのであろう、3日前にもやられたらしい。 無残に首から上を切り取られた仏像があった、他にも何故か地面から天に向かって顔を半分だけ出している仏像(あやうく踏みそうになるほど)、おもしろい場所をたくさん案内してもらった。
小さなガイドに別れを告げ街中を散策する。 主都プノンペンは治安が悪いらしいがここはそうでもないらしい。 まずはカンボジア料理をとガーデンスタイルの店に入った。屋外の食事もいい。 代表的な料理から気になる料理を10種類ほど食べた。かなり美味い!タイほど甘い、酸っぱい、辛いがなく香辛料も強くない。
味付けは全体的にあっさりしていて上品である。 ベトナム料理に負けないくらい日本人に合うと思った。お腹も相当膨れたがやはり屋台は気になる。 そこでホビロンの専門屋台に入ることにした。ホビロンとは羽化前のゆで卵のこと。 東南アジアでは別に珍しくはないが日本人にはなじみが無い。グロテスクで残酷なイメージがあるが実は相当美味い。 ここのホビロンはどうだろう?と食べてみる。やはり期待どおり最高だった。鶏のもも肉、レバー、砂肝を同時に味わっているといった感じ。大満足でホテルに戻った。
2日目も再びアンコールワットへ。 着くとなにやら参道が人だかりで賑わっていた。よく見るとどうやら結婚式のようだ。新郎は黒のスーツ、新婦は全身真っ赤なドレス、世界的にも白が多いだろうが何か意味があるに違いないが、その理由はとうとう分からなかった。
3日間アンコールワットに通ったがとても全部見たとは言えないだろう、何回来ても新しい発見があるに違いない。 事実もう一度行ってみたい所の筆頭である。かくもすばらしい遺跡群があるカンボジアであるが、まだそう昔でもない1970年代のポルポト政権による知識階級の大量虐殺やその後20年にわたる内戦などの悲しい歴史がある。 その結果医療水準は低く日本なら失われることのないレベルの病気などで多くの命が失われている。 1993年、遺跡の撮影にシュムリアップを訪れた写真家、井津建郎はそれらの様子を目の当たりにして「アンコールの遺跡の写真を“もらう・撮る”ばかりだったのが、“返す・与える”もするべきと考え小児病院の設立を決意。 彼の呼びかけでボランティア団体「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー」がニューヨークで設立され、多くの人々の支援を得て1999年2月22日アンコール小児病棟が開院した。 以後日本とアメリカの共同事業として7000人を超す会員に支えられながらアンコール小児病院は運営、維持されている。 今回このような団体があることは名古屋錦にあるバー「愚者」のオーナーである近藤航史氏から聞いた。彼は自身でもカンボジアに足を運びボランティアを行うなど熱い男である。 その心意気に賛同し、こぼれ話の中でフレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPANを紹介した次第である。

フレンズJAPAN TEL 03-6421-7903 E-MAIL friends@fwab.jp



第8回 映画の中のベトナム
私の趣味の中に映画がある。中でもベトナムにゆかりのある映画は大好きだ。「青いパパイヤの香り」、「シクロ」などのベトナム映画もいいが1950〜1960年代の騒乱期を背景にしたアメリカ映画も面白い。 例えばベトナム戦争そのものを題材にした映画。一番好きなのはロバート・デ・ニーロ主演の「ディアハンター」。でも今回は1952年ベトナム解放戦線が独立をかけた戦いを展開していた頃のベトナムを舞台にした作品と1929年仏領インドシナ時代のベトナムを舞台にした作品を紹介しよう。 両方とも時代に翻弄される男女の恋愛を描いている。

一つ目は「愛の落日」。原作は「第3の男」で有名なグレアムグリーン、原題はザ・クワイエットアメリカン、主演はこの作品でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、他にも4つの賞に輝いた大好きな俳優の1人マイケル・ケイン。 物語は彼の扮するロンドンタイムズの特派員である初老のイギリス人が赴任先で若いベトナム人におぼれ一緒に暮らすようになる。しかし祖国に妻子がいることを知っている彼女の動いていく心や、日に日に増す騒乱、会社からの帰国命令、離れがたい想いと激しい嫉妬に苦悩するたそがれを迎えた男の哀愁を見事に演じていた。 混沌とした時代に人間関係にサスペンス的要素も加え、すばらしい作品に仕上がっている。

二つ目はフランス人監督ジャン・ジャック・アノーの「ラ・マン(愛人)」。原作マルグリット・デュラスによる大ベストセラーで43カ国で翻訳された。これは彼女自身20〜30歳代をベトナムで過ごした時の自伝的小説でもある。 主演ジェーン・マーチ、日本でも大ヒットした作品だ。物語はレオン・カーフェイ扮するフランス留学を終えた華僑の大富豪の息子がサイゴン(現ホーチミン)へ帰る途中、メコン川を渡る船の上でフランス人女学生に一目ぼれしてしまう。 当時は、中国人がいくら経済的に上でもフランス人に下に見られていた。しかし母子家庭で貧しい彼女はお金の魅力と10代の好奇心から彼の愛人になってしまう。 映画の中でギャルソニエール(逢引に使う部屋)はホーチミンのはずれにあるショロンという中国人街にあった。当時80万人の中国人が住んでいた。 以前私がショロンを訪れた時の印象は喧騒に包まれ人、人、人といった感じで作品の中の暗く淫靡な雰囲気とはかなり違って見えた。 もちろん時代が違うからだろうが。話を映画に戻すと、1年半愛人関係を続け、そのうち彼は本気になり父親に彼女とのことを懇願するも全く認められず、しきたりどおり命じられた相手と結婚する。 やがて彼女がフランスへ帰ることとなるのだが、帰るその日、黒塗りのリムジンから降りることもできずただじっと港で見送る彼。彼の車をボォーっと船のデッキから見ている彼女。 だが舫いが切れて船が離れると、彼女は船室に入るなり激しく泣き出してしまう。 「愛しているはずはなかった。今は愛してないということに自信がもてなくなった」幼さゆえに心の変化に自分自身がついていけなかった、印象的で好きなシーンである。映画全体を彩る様々なシーンで見られるベトナムの人、風景、物などが織り成す空気感がシンプルなストーリーに深みと熱を与えていると思う。私的にもこの熱っぽさがベトナムを舞台にした映画が好きな理由の1つだと感じる。

余談だがその後ジャン監督の妻によって見い出されたジェーン・マーチはジャン監督と後に恋愛関係となり結婚してしまう。なんとも皮肉な話しである。やはりベトナムの熱にやられたのだろうか?



第7回 クチ
ベトナム人というのはおしなべておだやかな人が多い。多分好戦的な人種ではないと思う。 近隣国のタイなどはボクシング、ムエタイなどの格闘技が盛んなのにベトナム人の格闘家なんて聞いたことがない。 しかしである、歴史が物語るように売られたケンカは別のようだ。賢く非常に粘り強い彼らはいざ戦いとなれば負けない。 10年以上戦って大国アメリカをついに負かせた。
ホーチミンから1時間くらい行った所にクチという所がある。ベトナム戦争の時の激戦地で今も記念館のようになっている。 そこには戦争中地中に長く掘られたトンネル(250kmに及ぶ)がある。このトンネルの中には病院、学校なんかもあったそうだが、入り口は細身のベトナム人しか入れないようにできている。 アメリカ兵などはまったく入れない。中を見学できるようになっていて入ってみると、やはり狭いし暗い湿った空気が体を包む。 息が詰まる。こんなジャングルの地下からゲリラ戦を展開したベトナム人はやはり恐ろしいほど我慢強いのだろう。 アメリカが焦れて枯葉剤を撒き散らしたのもうなずける。施設は他にも武器などの展示や当時の映像を流している。 展示物で目を引いたのがトラップ(ワナ)の数々、どれもこれも相当えぐい。これにかかったアメリカ兵はいっそ殺してくれと叫んだに違いない。 ベトコン(ベトナム解放軍)はどこにもいないがどこにでもいるとアメリカの将校が言ったとか。巧妙に隠されたトンネルの入り口はまったく見えない。 突然現れる敵に神経は磨り減りアメリカ兵達は身も心もボロボロになっていったのだろう。 映画などでしばしば出てくるアメリカ兵が帰還した後もPSTDに苦しんでいるシーンがあるがさもあろう、うなずける。 さらに驚いたのは戦争当時の映像は女、子供も一緒になって役割分担して戦っている。しかも悲壮感がなく時折笑顔で話したりしている。 背筋が寒くなった。地上では士気もさがり発狂寸前で戦っているアメリカ兵、地下では余裕のベトナム人、勝てるはずない。 ベトナム人のプライドが高いのは逆境に負けず生き抜いてきた証なのだろう。



第6回 テキーラ村
今回はメキシコでの話。メキシコシティーの横ハリスコ州テキーラ村、その名の通りテキーラの産地である。ここはいたる所にテキーラの造譲所があり街を外れると原料のアガベ(リュウゼツラン・サボテンの一種)の畑が広がっている。日本でも見かけるテキーラの中で自社ブランドとして発売されている物は意外に少ない。私が訪れた時で5社しかなかった。クエルボ、サウザ、エラドゥーラ、オランダイン、ビウダ・デ・ロメロである。あとの物はワインでいうところのネゴシアン・商社とかが原酒を買って名前をつけて小売業者におろしている。
さて造譲所を回ろうと最初に訪れたのはクエルボ社。おそらく世界一のシェアではないか。広大な土地の中に工場とは別に博物館のような施設もあった。入口を入ると目に飛び込んでくるのがゲージに入った巨大なカラス。なるほどクエルボ(スペイン語でカラス)だからシンボルにしているのか。驚いた事にこのカラスは言葉をいくつも喋る。カラスが賢い鳥だとは知っていたが……。やつに挨拶をすませ奥に進む。創設者であるホセ・クエルボ氏が愛用したツールや車達が展示されていた。一通り見学していよいよテキーラ工場へ。ここからは会社のガイドがついて説明しながら案内してくれた。「余談だがこのガイドの女性がびっくりするほど美しい。が、しかしである、宗教上の理由か何かわからないがバカボンのパパ並にハナ毛がバサッと出ている。誠に残念!」まず巨大なアガベのカブ(300kg以上)をオルノと呼ばれるでっかいオーブンでじっくり蒸す。蒸し上がったアガベは試食できた。その味はサツマイモ(焼きイモ)のようだった。その後、順にテキーラを抽出するまでの工程を見学させてもらった。さすが世界一のシェアを誇るテキーラ会社という印象。
クエルボ社を後にし、次はサウザ社を見学。こちらはクエルボに比べて機械化が進んでいる感じ。クエルボのガイドが、当社はいまだに手造り感覚にこだわっている、と言っていた意味がなんとなくわかった。オランダイン、ロメロと回り最後にエラドゥーラ、実はここが一番行きたかった。なにせ一番好きなテキーラだから。エラドゥーラの外見は会社というよりさしずめ古城を思わせるようなたたずまい。わくわくしながら入ろうとすると門番に止められた。見学はできないと、大ショック!あきらめられないので、中の雰囲気だけでもと粘る。規則だからとあっさり。落胆している私を見て門番が日本からわざわざ来たのに悪いねと言ってくれた。しかも代わりにと自分のシャツから(たぶん社章だろう)エラドゥーラのマーク(馬の蹄鉄)をかたどった銀のバッジをくれた。本当に嬉しかった。忘れられない思い出になった。
以上5社を回って次は個人でやっている小さな造譲所を探した。そして見つけた小さな工場で熱烈な歓迎を受けた。水牛の角でできたコップにテキーラをなみなみ注がれ「うちのテキーラはどこにも負けない。日本に帰ったらここの事を話してくれ」と。ところで角でできたコップは飲み干さない限りテーブルに置く事はできない。結局3杯もいただいてほろ酔い状態。味はと言えば野趣あふれるといった感じ。その後オーナーに熟成タンクを見せてもらった。テキーラも寝かせると色も琥珀色になり味もまろやかになる、アニェホというやつだ。熟成タンクは3つあり、情熱的なこのオーナー、タンクにはそれぞれ名前がつけてあるという。左から夢見る人、恋する人、あと一つは忘れてしまったが……。ロマンチストのメキシカンらしい、心底テキーラ造りが好きなんだろう。仕事をここまで愛して楽しめたら人生最高だ。少年のような顔が鮮明によみがえる。オーナー自慢のテキーラを土産にテキーラ村を後にした。


第5回 フーコックにて
今回はベトナムはフーコック島の話。 フーコック島はカンボジアにほど近いヌクマムの有名産地で美しい島である。何年も前に訪れた時、オーストラリアなどの国がリゾートホテルを建てていて、さながら建設ラッシュのようだった。アンナンブルーもこの島のヌクマムを使用している。理由としてはうまみもあるがあの魚醤の独特のにおいがきつくないところ。あの臭みがいいと言う人もいるが、慣れない魚醤のにおいが強いと日本人のほとんどがひいてしまう。
ここのヌクマム工場を訪ねたが、以前本土のヌクマム工場を訪ねた時と全く違う。においがあまり強くないのだ。本土のヌクマム工場は周辺にもにおいが立ち込めて、つらくなってしまうくらいだった。なんでもフーコックのヌクマムはカカム(小さいイワシみたいな魚)を、しかも新鮮なものだけを使って仕込むという。本土などは多少イカだのエビだのが混じってもかまわず作るらしい。そういえばイカ・エビの発酵調味料はうまみは強いがかなり臭い。なるほどと思った。
工場を後にこの島から船で1時間くらい離れた無人島がとても美しいと聞き船頭に頼み渡ってみることにした。船頭とガイドと私と計4人は、小さな船でお目当ての島に着いた。本当に美しい、ディカプリオの「ザ・ビーチ」を彷彿とさせるほどだ。
上陸、即ひと泳ぎ、透明でぬるい水、最高だ。漂うように泳いでいると足に何かがぶつかった!大きい、サメ?!心臓が止まりそうになった。と次の瞬間ガイドの1人がバサッと水面に顔を出した。驚かそうと潜水で近づいたらしい。思いっきりの笑顔に怒る気にもなれず苦笑い。
ランチ付きと聞いていたので、しばらく泳いでから何を食べさせてくれるのかと思いきや、糸と針とエサ(小さく切ったイカ)を渡された。今から釣るというのだ。食材確保から始めるのか?釣れなかったらどうするつもりなんだろう。しかし心配無用であった。まさに入れ食い状態!しこたま釣っていざ調理。暖かい海にいる鮮やかな色をした魚。こんな魚が食べられるのかと思って、調理の準備を見ていると、・・・もしかして?やはりカインチュアだ!カインチュアは色々なフルーツと魚などを煮た甘酸っぱいスープ料理である。あまり好きな料理ではなかったが初めてうまいと思った。もちろん雰囲気も手伝っているのだろうが島の新鮮なフルーツと捕れたての魚、やはり素材の力は大きい。
フルーツを切っていると甘い香りに誘われてスズメバチを黒くしたようなでかいハチがたくさん寄ってきた。全員上半身ハダカ、こんなのに刺されたらシャレにならない、とビビッテいる私に気づいたのだろう、ガイドが「大丈夫、やつらはこっちが何もしなければ刺さないよ」と全く動じない。ここではハチもおおらかなのか、これが自然体というものか。日本にはハチ退治のプロがいると彼らに教えたら本気で驚いていた。ところ変われば、だ。私たちは島を後にした。
第4回 モミア
今回は少し時を戻してアンナンブルーオープン前、まだ私がメキシコ料理ロスノビオスにいた頃、2回目のメキシコ旅行・北部ガナファトでの話。
ガナファトはメキシコシティーからはかなり遠いがそれはそれは美しい都市である。一部の街並みはヨーロッパのような景観である。ガイドによると大昔は街に水路があり船で移動していたと。今はそこを車が走っているのだが、なるほどそのなごりがところどころに残っている。ヨーロッパっぽいし「イタリアのベニスのようだったのかな」街を散策する。
2日目、ガイドが「セニョール、モミアの博物館があるから観てくるといい」と言う。モミア?聞きなれないスペイン語である。英語で「モミアって何?」と聞くと「モミー」と。さっぱり分からん。よくよく聞くと何とモミアはミイラの事。ミイラの博物館?それは興味深いので出かけることに。
街から少し外れたところに、それはあった。イメージと違う。もっとおごそかな感じを想像していたのだが、さながら見せ物小屋の様相を呈している。入場券を買って中に入るとかなり混んでいる。ほとんど観光客だ。館内はおびただしい数のミイラ、ミイラ、ミイラだ。しかも妊婦さんから赤ん坊までありとあらゆるミイラが横たわっている。さらに専用のガイドがいてさながら怪談話でもするように話している。周りの反応を見ても決して真面目な話をしているとは思えず、まるで遊園地のお化け屋敷みたいだ。死者達の前でいいのだろうかと思った。
後で聞いたらやはりガイドの稲川淳二のような男「今宵もミイラの叫びが」などと言っていたらしい。笑うに笑えない話だがホテルに帰りマネージャーに聞くとさらに興味深い話が聞けた。この辺りは土葬だったのだがからっとした気候のせいでミイラになりやすい。それはいいとして墓場用の土地が少なく毎年の墓の場所代みたいなものをあまりに滞納すると掘り出されて状態のいいものはあの博物館行きなのだとか。今でもそうかは分からないが、死後の安らかな眠りも子孫次第というのは皮肉な話である。
第3回 田ネズミ
あれは確か3回目のベトナム旅行。この時は妹を伴い各地を回った。3回目ともなるといわゆるオーソドックスなベトナム料理は大抵食べてしまっている、そこで、やつ(妹)と話した。
今回はとにかく変わったものを食べよう!と。妹は外国語が堪能で、こう言ってはなんだが便利なやつである。以前もメキシコを回った際、彼女をスペインから呼び、スペイン語も話す彼女のおかげで相当助かったものだ。なにせ時間とお金が儲かる。
色々調べてここだという店を見つけた。なんでも魚介類から肉類まで珍しいものを食べさせてくれるらしい。何が美味いかあらかじめ得た情報から、名前は忘れたがぞうりエビのおばけのようなやつと、乳飲み豚の丸焼き、センザンコウ(なんでもアルマジロのような姿をした動物らしい)、これらは是非食べたいねと話しながらいざその店に乗り込んだわけだが、とにかく流行っている。
店は想像より大きくすごい活気だ。テーブルにつき、いよいよ注文。エビ、子豚はあるがセンザンコウは入手が難しくなり無いと言う。どうやら希少動物らしい。そんなの売っていいのか?と思ったが5品くらい注文して、ふと周りを見わたすと、何か変だ。店員が生きたエビだの鳥だのを客に見せている。
何とこの店、注文した食材(?)を生きているときに、まず客に見せるようだ。確認か演出かはさだかでないがそうする決まりらしい。困った・・・。エビ、魚介類はまあよしとしよう。しかし生きた乳飲み豚は無理だ。我々が頼まなくても誰かに食べられるだろう。でも私たちが犯人になるのはやめようと話し、魚介中心に食事をすすめた。
30分くらいたったろうか。ボーイがやってきて、せっかく来たのだから是非食べていってほしい肉料理があるという。とにかく美味いからと言うので、何かと訪ねると田ネズミだという。びっくりしたがもともと珍しいものをと来たのだから、生きている姿を見せないという条件で注文した。
出てきた料理は小さく切られ野菜とともに盛られている。見た目にはネズミとはまったく分からない。まずほっとして恐る恐る口に運んでみる。・・・ん?これは美味い!味的には牛肉のロース、食感は若鶏といったところか。日本に帰ってメニューとして出すわけにはいかないが、おもしろい経験になった。
この田ネズミ、何でも米しか食べてないから臭みが無いのだとか。魚介類も相当に美味しく大満足で店を後にした。
そしてあくる日恐ろしくひどい下痢に見舞われた2人は1日をホテルに缶詰で棒にふってしまった。8種類もの珍生物を食らったのだが、いったいどいつにたたられたのか全く分からない。
第2回 海の桂林
こんな話を聞いた。
私の知り合いにとあるクラブの会長Y氏という人がいる。この不景気にもかかわらず彼の会社はなかなか調子が良いらしく、今度ベトナムに工場を作るのだとか。
ということでベトナムつながりで話してくれたのが、「私は無類のゴルフ好きでしてね。工場のプロジェクトに伴いベトナムでの接待ゴルフがやたら増えまして、これが意外に快適で安くてなかなかいいんですよ」と、飲みながら聞いていて耳に留まったのが、ハノイから東へ170km離れた、あの絶景で有名な海の桂林と呼ばれるハロン湾。世界遺産にも登録されているその美しいハロン湾を望む場所に大きなゴルフ場を作る計画が進んでいるというのだ。世界遺産の近くに遊興施設を作るなど、先進国では考えられない。
近年海外からの投資も相次ぎ発展めざましいベトナムだが、まだ文化を守ることは二の次なのかと、詳しい事情は分からないが、戦後の日本にもそんな時期があったのだろう。近い将来、ハロン湾からゴルフのボールをすくう人が見られるかも・・・。
Y氏いわく、もしそれができても行かないだろう・・・と。なぜかとたずねると、他国の世界遺産の近くでゴルフはやはり気が引けると。 それもそうだ。また日本人が、揶揄されるに決まっている。でも一部の日本人は喜んで行くのではないかと思うのである。
第1回 ハーさん
こんな話を聞いた。
アンナンブルーオープンの際、とても世話になった私の知り合いで、ベトナムハノイ人のハーさんという人がいる。この人物、頭の良さもさることながらとてもユニークなキャラで、ベトナムに足を運ぶたびに毎度のこと相当に世話になっている。
日本にも店を持っていて、しばしば来日する彼は日本語もおそろしく上手く、日本人と話しているような錯覚を覚えるほど。そんな彼の口癖は「私はベトナム人だけどベトナム人じゃないんですよ」と人懐っこい笑顔で言う。
私なりの解釈で、大国アメリカ・フランス・中国に戦争で勝っている、ベトナム人の誇りとビジネスマンである自分は、欧米人にいろんな意味で引けをとらないという自信の表れではなかろうか。
彼との話は毎回楽しいものだが、前に犯罪の話題になった時が興味深かった。ハーさんいわく、「ベトナムでは月に400人くらい死刑になっています」と。私は耳を疑った。単位の間違いではないかと聞きなおしても間違いないと言う。父親が政府高官である彼だから知りうる話なのか、さだかではないがとにかく驚いた。最近のTVニュースで中国で日本人の死刑ラッシュというのを見たが(ほぼ麻薬らしいが)売買目的で何グラムか以上で割りとあっさり死刑になってしまうらしい。
外国人でも容赦はないのだ、記者はアヘン戦争が起因していると言っていたが、もしかしたら死刑になる犯罪が日本なんかよりも軽いのだろうか。
そういえば、アンナンブルーオープンの少し前、15年前のことだが、ベトナムホーチミンを建築屋さんと訪れた時バイク洪水に面食らった。しかもみんなノーヘルメット!ガイドに「これでは事故も多いでしょう?交通事故死も」と訊ねると、ガイドはさらっと「大丈夫です。ベトナムで事故を起こして相手が死んでも、大抵の場合葬式代と日本円で15万円程度ですみますから」と、別にそういう事を聞きたかったわけではないのだが、今でもそうなのかは分からないがハーさんの話を聞いて15年前のガイドの話を思い出した。





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